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●目に見えているもの 〜 デッサン論

デッサンとは独学が非常に難しいものです。技術的なものであれば、同じことを何度も繰り返して練習することでそれなりに身につくものですが、デッサンは「技術」ではないんですね。この辺りを間違えて理解している人が多い気がします。実際、枚数をたくさん描くことで逆に弊害が出ることすらあるわけです。デッサン力を身につけたいという人は、まずは自分が絵を描いたときに「なぜそのように描いたのか?」ということを考えなければなりません。

自分は絵がヘタだと言う人がいます。どんな絵がうまい絵で、どんな絵がヘタな絵か、これはあまりにも基準が曖昧で、見る人の価値観によって大きく変わってきますよね。俗に「ヘタうま」という言葉があるように、ヘタなようでうまい、味のある絵といったものも存在します。基準が曖昧だと話が壮大になって収集がつかなくなるので、ここでは「うまい絵」とは「形が正確でフォトリアルに描けている絵」とします。実際VFXに携わるCGアーティストに求められるデッサン力とは、まずは「正確な形が描ける、フォトリアルに絵が描ける」ということだからです。もちろん他にも求められる要素はありますが、まずはそれができることが必要条件となります。したがって「絵がヘタである」ということは「正確な形が描けない、フォトリアルに絵が描けない」ということだと定義します(もちろんこれは話を進めるために便宜上そう仮定するものです)。

では、絵がヘタな人は、どうして正確な形が描けないのか? ヘタな人がよく言うのが「見たとおりに描いているつもりなのに、うまく描けない」という言葉です。この言葉は実に不思議ですよね。この言葉を信じるなら、その人は目に映ったそのままを描いたのだから、写真のように正確な形が描けているはずです。目という器官に限っていえば、その網膜にはレンズを通して正確な形が投影されているはずで、それをそのまま絵としてアウトプットすれば写真のような絵が描けるはずなのです。しかしなぜか描いた絵は形が狂っているし、陰影もちぐはぐ、そして描いた本人も何だか変な絵になったなと思っているわけです。それはなぜか?

「見たとおりに描きました」・・・・この言葉は半分正しく、半分間違いだと言えます。これは「見る」という言葉をどう捉えるかによります。「見る」ことが単に物が目の網膜に映ることを指すのであれば、形の狂ったヘタな絵を指して「見たとおりに描きました」というのは間違いになります。しかし「見る」ことが、網膜に映った情報が一旦脳で処理されることだとすれば「見たとおりに描いた」という言葉は正しいのです。そして人間にとって「見る」という行為は必ず後者になります。デジカメならばCCDやCMOSといった撮影素子に映ったそのままが写真になるわけですが、人間の場合は網膜に映ったそのままが「見た」ことにはならないのです。

人間が、いかに網膜に映った全情報を利用できていないかは、普段の経験から知ることができます。たとえば、何かひとつの物に集中していると、別のものが視界に入っているにも関わらずそれに気がつかなかったりとか、何か捜し物をしていて、自分ではそれがこの辺りにあるものと思い込んでいて、視界の端っこに捜しているものが入っているのに気がつかないといった経験は誰でもあるでしょう。結局人間は物を見るときに、網膜に映った全情報から自分が必要だと思い込んだもの、関心があるものだけを無意識に選択しているわけです。これは視覚だけでなく、耳から聞こえる音に関してもそうです。

「見たとおりに描いた」のに絵がヘタな人は、確かに物を「見て」はいます。しかし目の前にある物の、自分が今まさに描いている部分にピンポイントで集中するあまり、本来それを描くために必要な周りの情報を無意識のうちに捨ててしまったり、今までの経験に基づいた「思い込み」が邪魔をして必要な情報に気付かなかったりなど、見てはいるけどその「見かた」に大きな問題があるわけです。したがって、正確な形を描くための「見かた」「情報の集め方」、網膜に映った情報をいかに捨てずにそのまま利用できるかがわかれば、うまく描けるようになります。